誰かの分岐点になる話

私の経験や疑問に触れて、誰かがヒントや共感を得て前に進めますように。

人生観

最初の記事で、自分の人生が誰かの人生のヒントになったり助けになれば、みたいなことを書いたけど人の参考になるような人生を歩んできたとは到底思えないわけで、何を偉そうにと見返してみると思う。

 

私が言いたいのはどちらかというと、反面教師になれば、という感じかもしれない。または、失敗して気付いての繰り返しでしか生きれない私のようなタイプの人たちに共感してもらえたら嬉しいな、とも思う。

 

あとは、私自身が自覚できていないこともあるかもしれないので、自分と向き合うことでそこに気付けたり誰かの言葉で気付かされることもあるかもしれない。それを望んでいる部分もある。

 

このブログも、進んでいくうちに別の方向に進み始めるかもしれないけど、まさにその行き先を固定しすぎず流れに任せて進んできたのが私の人生そのものだ。

40歳を目前にしてようやく確信じみてきたけれど、私はこういう生き方しか出来ないんだろうなと。

何か目標を作って、まっすぐそれを目指して進むためには外的強制力なしには無理だ。

なんでもそう、ダイエットだって勉強だって仕事だって、監視の目やどうあっても逃げ出せない状況などがない限り無理。

いつだってその強制力がなければ簡単に継続を放棄してしまう。

 

強制力がなくても自制によって継続できる人がこの世にたくさんいることも知っている。どうして自分はそっち側の人間になれないのだろうかと頭を悩ませることは多々ある。

継続できる人が才能で何の努力もせずにそれが出来ると思っているわけではない。

ただ、自分もそっち側に生まれたかったと心から思う。

 

継続できる人とできない人との差はなんだ。

自分に甘いのか、目先のことしか見れないからか、だとしたら継続できる人はなぜ先のことを見据えて行動できるのか。

 

それがわかったところで自分がそっち側の人間になれるかはわからないけれど。

 

ただ、今のところ思っていることは、「散々いやなことをしてきたから、これ以上いやだと思うことを自分にさせたくない」という漠然とした感覚だ。

 

まだ子供であった時代に、とても息苦しい思いをしてきた。

そのことがずっと心の中にあって、どうせ生きるなら自由に生きたいという思いがとても強い気がする。

 

私は何にも縛られたくない。

誰も私に強要してほしくはない。

 

その思いがあまりに強すぎてこの日本、この地球、この世にすら縛られたくなくなることがある。

だから私にはある程度の縛りが必要なのもわかっている。

自営業をしたら堕落していくのが目に見えているから会社員は続けないといけないと思っているし、一緒に暮らす愛猫がいるおかげで今の私は生きているとさえ思う。

 

うちの子には感謝しかない(ケンカもするけど)。

 

私の根幹にはやっぱり「生きていたくない」という思いがある。

一番の望みはそこなのだから。

だけど死ぬことも出来なかった。

 

仏教ではこの世は地獄の一つであると言われているがその通りだと思う。

この世に生まれ出たときに赤ちゃんがわんわん泣くのは、怖いからだ。

これから始まる地獄の人生が恐ろしいからだという説を私は少し信じている。

 

どうせ生きるなら楽しく生きたい、とも思わない。

けれど、どうせこの世で生きるしかないのなら地獄も楽しむしかない、とは今は思う。

だって生きることを選んだのは自分だから。

自分が選んだ道を間違いだったと思いたくはない。

自分で正解にしていくしかないんだから。

 

こんな生き方しか出来ないんだから。

人から見て劣っていても、これが私の精一杯なんだから。

むしろよく頑張っていると褒めてあげたい。

 

そう思えるようになったのも、ここ最近の話。

 

思ったことをつらつらと書いてみたので何が言いたかったのかわからないけれど、つまりはそういうこと(どういうこと)